再生しよう!ふるさとの緑、池田町は1998年開町100年を迎え、これまで開発により失われた緑を今後100年かけ、
取り戻す計画「100年の森」の構想を計画致しました。

 この計画の素案は町民各層より,応募で集まった方々がつくり、町民一人一人が森づくりに参加し、積極的に緑を守り育てるものです。 

 町民各層、子供から老人までの約1,000人の参加で1998年5月17日に河川公園でスタートを切り、
まち全体を緑で囲みこの一世紀で失われた緑を取り戻す壮大な計画の第一歩を踏出しました。
その第一歩が「100年の森」植樹際でした。

 植樹祭は100年記念事業で第1回目ということもあり、たくさんの人々が参加しましたが私はこの時、
家に帰りソフアーに横になると植樹際の疲れがたまり睡魔におそわれながら、あれこれと2回目、3回目までは何とかなるにしても、
20年、30年〜100年先の森づくりのこと、100年かけ緑を取り戻す計画はどのように進めるのか、
そんな心配をしながら深い眠りにつきました。

 30数年前池田町では、畑作、酪農主体の農村地帯に果樹を取り入れた夢のある農業を目指しブドウ栽培に着手致し、
十勝ワインの醸造へと発展していきましたがワインの熟成に欠かせないのが樽です。

 自分ながら夢と希望に充ちてはいたが、丸谷町長の元で海のものとも、山のものともつかぬ、ぶどう栽培に奔走していたのが
横田、有田技術補(当時の職名)だった。

 夢の中では私が先生になり「100年の森」推進がいつのまにか「オークの森」に置きかわり意外と簡単に進展していくのです。

 1999年の春頃、農業技術研究所とぶどう・ぶどう酒研究所の合同研究発表会で林政係長でグリーンインストラクターの有田富雄は
農業とままったく関係ない題名で「グリーンインストラクターのひとり言」と題して今からでも遅くはないドングリを植えて
十勝ワインの熟成用の樽材を目的とした「オークの森」をつくろうと提案したのです。

 異色の提案が皆を驚かせ、新聞も変わったことを発表した人がいるとコメントしていました。

 家に帰り息子にも100年かけ育てる話しをしたところ、100年も先のこと孫の和希も生きていないぞ、と言われました。
しかし元気づけてくれたのは宮崎農林課長でした。「ミズナラの植林はどこでも、誰でも出来る、池田町ならではの
「オークを植えて100年かけワインの樽材を作る」他に出来ないことに目をむけ取り組みましょうと
夢を語ってくれたのが大きな推進力となりました。

 前の年には清見ケ丘のミズナラ、カシワの生育の状況や本数なども調査したが、すでに農業技術研究所の圃場には
当時の河口農林課長の発案でドングリをたくさん蒔きつけてあり力強く発表ができたのです。